管理人 |
管理人自己紹介 1953年生まれ。 長野県内及び隣接県を中心に 3000m級の北アから 里山 裏山~路地裏歩きまで オールラウンド?登山?が趣味。ただし冬山にはいきません。 1974年信州峠会創立に参画。 以後、(時々)会長を歴任。 |
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殿戸峠と五島慶太 〖4月〗 |
![]() 五島慶太は 旧姓小林、同村出身で、大実業家 東急グループの創始者である。 生家は 殿戸峠の直下にあったが 2年前の8月落雷により焼失した。【右写真は 峠道から見た焼失前の生家】 峠は 別所峠とも呼ばれ、青木村殿戸から上田市別所温泉通う湯道(現在は整備され別所遊歩道となっている)上にあり 通称「湯峠」であった。 生家から湯へ 峠越えでもわずかな距離である。 |
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千国街道 棒道 〖2月〗 |
![]() 大糸線 一日市場駅の東方辺りから ほぼ真北へ 立石信号まで 約1.3Kmの直線道。 道端には 道祖神、庚申塔、秋葉社や三峰様が さらに井戸や寺跡が残る。 戦国時代の 真々部氏の居城跡も 近い。 安曇野に春の足音が聞こえる道は 歴史散歩にちょうどいい。 |
![]() 【別名 「信玄の棒道」と呼ばれているが 真偽はわからない 戦国時代から明治22年の新道開通まで 糸魚川まで結ぶ 重要な道であった】 |
修那羅峠の石像たち⑧ 〖1月〗 |
![]() 地蔵菩薩などの仏像系が多い中で この像は 神像系である。 ガイド本には 農業を司る神、「農神」の名がつけられている。 藁束を持ち、やや強面の・・・、キャラクターがいい。 |
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五竜岳の武田菱 〖3月〗 |
![]() 一番早く かつ 見つけ易いのが 白馬辺りから 五竜岳頂上付近に現れる「武田菱」で、 3月中旬から 5月中旬頃までと 長期に楽しめる。 元々 「五竜」の山名も 「御菱」が転じたものとの説があるくらいである。 |
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皇女和宮の左手 【12月】 |
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江戸末期 中山道を通って降嫁した皇女和宮。
彼女には 左手が無かったとの説がある。
戦後 改葬の為の墓所発掘調査で 左手首から先の骨がどうしても見つからなかったのである。
彼女の肖像画にも左手が描かれていない。
不思議な話である。
【和宮 肖像画】
(詳細は 当ブログ 参照))
大桑駅の桜 〖5月〗 | |
![]() 明治政府は 鉄道敷設に際し 一宿場一駅の大原則を貫いて駅を置いた(中央西線全通 明治44年5月)。 須原宿と野尻宿の間にある大桑は 取り残されたが 戦後 村長の必死の陳情で 開設した駅である(大桑駅開業 昭和26年9月)。 桜の根本には その碑文がある。 「誰もが出来ぬという駅を、・・・・」名文である。 |
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峠歩きのスゝメ |
民俗学者の柳田國男氏によると日本には約1万の峠があるという。長野県立歴史館の前館長の市川健夫氏(東京学芸大学名誉教授)は県内には約500の峠があるという。 信州人は峠と深い関わりを持ってきた。かつては物資ばかりでなく思想文化も含めた生活のすべてが峠を越えてやってきた。峠は常に生活に密着していたが、近年 トンネル化や車道新設によって 廃道となったり忘れられた峠が多い。 そんな峠を訪ね歩こうと思う。市川健夫氏はその著書『信州の峠』のあとがきで「信州には標高千m前後の峠が最も多く ハイキングに適した自然条件を備えている。峠旅行は自然の美しさばかりでなく歴史と詩情に富む」と峠歩きをすすめている。 |
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